白山書房の本紹介 |
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画家であるモリカズを父にもつカヤさんの二十代、三十代の血気盛んな半生を描いた画文集。山のとりこになり、結婚してから白馬山麓にスキー小屋を経営し、登山と山スキーにうつつをぬかしながらも山で絵を描く人生。一人で針ノ木峠から穂高まで歩いたり、滝谷で登攀中でもスケッチしたり、仲間と知床の山を這松こいで縦走したりと、大自然の中に身をおく日々を送る。だが、やがてダンナとの別れの時がくる。カヤさん曰く、「私は関東ローム層の片隅の水溜りに産みつけられたオタマジャクシだ」。 [筆者紹介] |
●目 次 1 カンガルーの袋の中から カンガルーの袋の中から 2 穂高の山と人 雪渓を重い心で歩く―阿曾原峠から針ノ木峠 3 谷川岳・赤石岳など 谷川岳の四季 4 北海道の山と海 十勝・大雪・ニセコ 5 白馬とスキー小屋 一人でも登る―冬の唐松岳 あとがき
●本文「カンガルーの袋の中から」より 私は生まれたときから絵かきの家に育って、袋の中のカンガルーよろしく、うちの父モリの懐に抱かれて、二科の研究所の人達の絵を眺めていた。昭和のはじめから一〇年代にかけて軍国主義と官僚主義はなやかなりしはずだったが、家に集まるのは貧乏な絵かきばかり、家では軍人も役人も見たことがなく、金持は悪徳で何かつき合いの悪い手合いだという風に思っていた。というのは小さな子供は父親の思想をそのまま身につけているものだから。それでいて絵かきばかり見ていた反動で、 「絵かきにはなるまい。絵かきにはお嫁に行くまい」とも思っていた。 そうしているうちに戦争末期と敗戦直後の狂乱状態の中で、実生活に必要な食料や科学技術以外はすべて不必要であると、私の貧弱な頭は考えた。 「絵とか音楽とか、すべてそういったものは、食いたりた上でのことだ」 この私の考えに対して父モリは言ったものだ。 「じゃあアメリカは物質的に満ちたりているがどうなんだ。満たされないからこそ、音楽や絵が必要なんじゃないか」と。 しかし目の前にぶらさがった事態しか目に入らず先見の明のない私は、永久に空襲がつづき、永久に食糧難がつづくように思えた。そして三つのときから、たまらなく絵を描くことが好きだったにもかかわらず、理科系の学校に行こうとした。自分に向かない自然科学に対するあこがれだったかも知れない。 (中略) 旧大学制度の男女差別に怒った私だったが、ものごとを抽象化する理論的な思考とか、新しいものを作り出す独創的な分野では、残念ながら男の人に軍配をあげざるをえない。かのドイツの大数学者クラインは、「女性は数学に適さない」と言ったそうだ。それでは女性に失礼と思ってか、「数学は女性に適さない」と言いなおしたとか。 今まで世界で軍人とか政治家に女の人がいないのは仕方がない。でも科学者とか芸術家にも女の人が少ないのは、どうしたわけだろう。文学者はまだいるが、音楽家など演奏家はいても独創的な大作曲家はいない。絵かきだってそうだ。女の絵かきは沢山いるが、大画家にはいない。「ああ、何だって女に生まれちまったのかな」とその頃よく嘆いたものだ。 授業中ノートをとりながら、左手をスケッチしたい衝動にかられたり、また間近かでみた肉親の死のために、勉強よりも何か本質的なものを忘れているんじゃないかとあせったりした。空襲のさ中に結核になって、若くて死んだ姉のお骨をみた印象があまりに強烈で、父モリと話しながらモリの骨太の手の骨が、頭蓋骨が見えてくる。教室の中でも、ガラスが割れてはまっていない満員電車の中でも、突如として人々がガラガラと骨の山となる。 そのうち私は考えなおした。「生きることが正しい」と肯定するのは、数学の公理みたいなものでいいとか悪いとかいうものじゃなくて、どんなことでも生の肯定の上に成立っていると。それなら生きているらしく生きようと勉強したくなった頃は卒業も間近かで、学問的にはいかに知らないかということが分ったぐらい。 卒業後、気象研究所に半年ほど無償で通っていたが、そこも或る日、突然室長さんの顔を見るのがいやになったという馬鹿なことでやめてから、理科系のものとは全く縁が切れてしまった。 そしてやっぱり子供のときに帰って絵を描こうと思った。そうしてみると、私の一五年間の学校生活で得た知識とは何だろうか。私は父モリに小学校に入るまでの絵がよかったと言われていた。その頃家に来ていた長谷川利行が、おせじ半分だと思うが、自分の絵と交換に私の絵をもって行ったことがある。今も彼の暗い色の裸婦が部屋にかけてあるが、子供のときはあまり好きじゃなかった。だが私はもう子供じゃない。子供の絵がいいといって真似をしたらうそになる。絵とは、学校生活の知識とは、ぜんぜん独立の事象であることに戸惑った。 (以下略) ●本文挿絵より |