白山書房の本紹介

私の日本百名山登頂記 湯浅栄=著 四六判上製本452頁 2000円(本体)

平成三年の夏、甲斐駒ヶ岳を目指す途中に台風のため仙水小屋で一日の停滞を余儀なくされた。そのとき退屈しのぎに小屋にあった山の雑誌の記事を読んで触発され、自分もその流れに添って百名山を完登してみようと思った。

●著者プロフィール
1939年(昭和14年)、千葉県生まれ。
奥多摩・丹沢をホームグランドとして単独で数多く歩いている。最近は人出が少ない静かな時期を狙って出かけている。


●掲載見本(火打山・妙高山)

●はじめに
 登山ブームがはじまったころの二十代は余暇を利用しては近くの山に入っていた。当時は土曜日発超満員の夜行列車で早朝に目的地へ着き、日曜日の夜半に帰るといった強行軍であったが、若さにものを言わせて行動していた。
 サラリーマンの宿命である地方への転勤を重ねることから、生活環境の激変と、毎日の仕事に追われて、自然に山との関係も薄れてしまった。そして生活習慣の乱れから体重が増加するとともに身体の節々に問題が生じ、「これではいけない」とのことで四十代後半からまた山歩きをはじめてみた。しかし長い間のブランクは大きく、再開はしてみたものの足腰への負担が大きく、半日歩くことが背一杯で、翌日からは数日間も筋肉痛に悩まされた。
 そこで一大決心をして体を鍛えようと早朝にウオーキングをはじめた。徐々に距離とスピードを上げみたが何とか耐えられるようだ。さらに走ることまで引き上げてみたところ足の関節、筋肉などに故障が起きてきた。しかしこれを克服しなければ楽な山歩きは出来ないと、自分を叱咤激励の苦しい日々が一、二年続いたが、何とか一時間以上のランニングまで出来るようになり、市民マラソン大会まで参加出来るようになっていた。
 そのころも登山中の苦しさには大きな変化はなかったが、回復力が増して疲労の蓄積が防げたようで、翌日からの筋肉痛はあまり気にならなくなった。また持続力も出来たことから多少無理な山行も可能となった。それなりの自信もついて「山歩き」から一段のグレードを上げて「登山」の領域の山々へと足を向けてみた。
 深田久弥氏の「日本百名山」が持て囃され、中高年による登山ブームが絶頂期であった平成三年の夏のこと、甲斐駒ヶ岳を目指す途中に台風のため「仙水小屋」ではじめて一日の停滞を余儀なくされた。そのとき退屈しのぎに小屋にあった山の雑誌の記事を読んで触発され、自分もその流れに添って百名山を完登してみようと思ったのがきっかけであった。
 この時点で既に三十座以上の百名山の山頂は踏んでいたが、すべてを白紙として一年に十座程度を目標に十年をめどと安易に考えていたが、容易なことではなかった。やはりサラリーマンの宿命で休日以外の行動は難しく、折角の計画も天候や仕事の関係で中止せざるを得ないことが多くあり、また冬山は自信も装備もないので夏山が中心のため遅々として進まなかった。
 焦り気味であったが年々リタイヤの時期が迫ってきていたので、多少の我が侭を認めてもらって余暇を作り出しては遅れを取り戻すべく全国を駆けめぐった。
 3000メートル峰が二十一座二十八峰あると言われているので、欲ばりにもその完登も合わせて目指していたので体力のある内にとのことで、この実現を優先させたところ、乗鞍岳登頂の平成十年九月で終った。
 平成十一年からは「毎日が日曜日」の立場となって、残された方面別の山々を集中的に消化し、平成十四年九月に筑波山を最後に百名山の完登を果たすことが出来た。
 登頂の都度その山の印象をメモしていたものをもとに、平成十三年九月から十一月にかけて纏めたものが本書で、稚拙な文章の羅列であります。また古い記憶を辿って書いていることもあり誤りや勘違いが随所にあるのではと思いますが、それは素人のことですのでご容赦をお願いします。また登山中撮影した拙い写真を掲載しましたが、本文の内容と季節感などが相違するものがあります。それは山の全景を撮影するため別の山から、また天候によって後日に再登頂して撮影したからであります。

●抜粋(火打山・妙高山)
 まだ真っ暗な早朝を笹ヶ峰登山口から樹林帯に入るとさらに暗さが増した。懐中電灯を頼りに進むがあまり気持ちのいいものではない。水量が豊富な黒沢には、大木が沢越しに倒れ込んで橋の役目をしていた。十二曲りの急登に差しかかった頃ようやく夜が明けてきた。
 妙高方面へ分岐する富士見平からは雲一つない晴天のもと、地名の通りはっきりと富士山を見ることが出来た。ほどなく前方に木々が色づきはじめたばかりのおだやかな均整が取れた三角形の火打山が、全容を現し朝日に照らされて目前に飛び込んで来た。
 トンガリ屋根の高谷池ヒュッテの前から池塘帯がはじまった。天狗の庭では鏡のような水面に、紅葉にそまった火打山の姿が映る何ともいえない美しさだ。ゆるやかな斜面を左に後立山連峰を、右に日本海を眺めながら高度を上げて行くと、途中にライチョウ平の標識があったが、本当に雷鳥は棲息しているのだろうか? 最後の急登が終わると視界をさえぎるものは何もなく、小さな石仏が置かれているだけの火打山の山頂であった。
 年に何回かの秋の晴天に恵まれた日になっていたのは幸運である。白馬、五竜、鹿島槍の連山がこのようにはっきりと連なっているのを見たのははじめてだ。槍、穂高連峰はもとより中央、南アルプスから八ヶ岳、信越の連山とこれほど眺望が出来るとは思ってもいなかった。すぐ隣にはズングリとした山容の焼山が噴気を吐き出している音が聞こえるほど近くにある。また雨飾山頂は焼山の肩につつましくほんの少し顔を出していた。去年登ったが天候が悪くまったく展望が得られなかった高妻山が乙妻山と連なって、手の届くところに位置して前回の不運を取り返してくれていた。これから登る妙高山が外輪山の奥に黒く兜のような山容で立ちはだかっていた。高谷池と天狗の庭の水面は真っ青になって、草紅葉が一段と映えているのが特に印象的であった。名残惜しんで山頂を後に高谷池まで戻った。
 茶臼山へのなだらかな峰を越えて黒沢池へ下った。細長い一面の笹原に大小の湖沼が点在し、そのはずれに円形で青色屋根の黒沢池ヒュッテがあった。ここでしばし休息し、いよいよ妙高山への登りに向かう。外輪山に当たる火口丘の大倉乗越に出ると突然眼前に圧倒する様に大きくどっしりとした溶岩の固りとなって妙高本峰が待ち構えていた。足元の樹林帯の中にぽっかり円形の水たまりとなった長助池の湿地帯が俯瞰され圧倒的な妙高とは極めて対照的な姿だ。水が溜まった古い火口だったのか? なかなか魅力的なところだ。
 せっかく登った火口丘をまた一気に下って沢を渡ると長助池方面への分岐点で、ここから最後のきつい登りが待っていた。露岩が続く急斜面で朝からの疲労も加わり山頂がすぐ先に見えるが大変長く感じられた。たどり着いた妙高山頂は細長く黒い溶岩が重なり合ってゴツゴツした複雑な地形をしていたが、展望は火打山頂と同様何も遮るものはなかった。
 野尻湖が真っ青な湖面を広げ、そのはるか後方には信越の山々が幾重にも重なって見えていたが、山頂名は言い当てられないのが残念だ。今朝登ってきた火打山と焼山から高妻方面は妙高外輪山越しの奥にパノラマとなって一望され見飽ることがない。後立山方面は既に雲が涌き上がって視界が消えていたが、山頂からの眺望を堪能して後ろ髪を引かれる思いで黒沢池ヒュッテに戻った。木道の敷かれた快適な湿地帯を通過する頃から、今日の疲労が溜まって歩く速度が一段と落ちる。富士見平の分岐で十分に休息を取ったがここから笹ヶ峰までは非常に長く感じられた。重い足取りでスタート地点に到着した時は秋の夕暮れが迫って薄暗くなっていた。展望と天候に恵まれた忘れ難い強行軍の一日だった。




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