白山書房の本紹介

渾身の山―我が剱岳北方稜線 ―

佐伯邦夫=著 A5変型判上製317頁 2,000円(本体)


剱岳の北方へは、小窓・大窓を経て毛勝三山をおこし、駒ヶ岳・僧ヶ岳と続き、やがて黒部川の扇状地に消える。魚津から望めば、僧ヶ岳が大きな部分を占め、その右に毛勝三山が高々とそびえ立ち、剱・立山はその右はるか、という眺めになる。
著者はこの視座さながらに、僧ヶ岳を手はじめとして毛勝山に挑み、剱岳へ駆け上っていった。この土地に生まれ育った者のなかば宿命のようにかかわった剱岳北方稜線との五十年間に及ぶ登山人生を綴った紀行・エッセイ(雪稜・沢・山スキー)。

■著者プロフィール
佐伯邦夫(さえきくにお)

 1937年魚津市に生まれる。12歳の白馬岳が初登山。魚津高校、上市高校山岳部を経て、1956年魚津岳友会の創立に参加。大学時代高須茂に師事。大野明、奥山章、山口耀久らと交わる。
 1961年帰郷。富山県内で教職に就くかたわら、北ア北部、頚城地方(新潟県南西部)の山に親しむ。また橋本廣の片腕となって、郷土の山の発掘、紹介につとめる。この間、クロスカントリースキーの普及、山スキーの再興にも尽力。
 著書、編書は多いが、『ぶどう原に雪ふり積む』(北国出版社)『会心の山』(中央公論社)など初期のものが広く読まれた。
 所属、魚津岳友会、日本テレマークスキー協会。


●もくじ

「剱岳北方稜線」あるいは「アルピニズム」のこと

雪 稜

僧ヶ岳・駒ヶ岳から毛勝三山へ
春の毛勝三山縦走
赤谷山から剱岳へ
春の北仙人尾根
東芦見尾根から猫又山
小早月川源流一周

小黒部川溯行
黒部川支流尾沼谷溯行
釜谷、田部重治から九十年
毛勝山北面モモアセ谷溯行
僧ヶ岳別又谷一ノ又再登

山スキー

剱沢から片貝東又谷へ
立山山頂から黒部御前谷滑降 馬場島へ
僧ヶ岳全山縦走
ブナクラ谷から片貝南又谷へ

地名・人名・用語解説
略年譜「僧ヶ岳・毛勝三山との五十年」
あとがき

本文抜粋

「剱岳北方稜線」あるいは「アルピニズム」のこと

  
<略>
 早月川・片貝川が、この連峰北半山中におこり、荒々しい急流のまま富山湾にそそぐ。この二つの川の間を埋めるようにして筆者の生まれそして生きた魚津がある。そこから連峰をうち仰ぐとき、富山平野の中心部あたりからするときに比べればかなりいびつだ。即ち連峰末端の僧ヶ岳が大きな部分を占め、その右に毛勝三山が高々とそびえ立つ。剱・立山はその右はるか、という眺めになる。
 半生をかえりみるとき、この視座さながらに、僧ヶ岳を手はじめとして毛勝山に挑み、剱岳へ駆け上っていった。そしてこの名山を通して山を見、登山とかかわった。それはこの土地に生まれ育った者のなかば宿命のようなものだった。あたかも立山山麓の芦峅寺のガイドがそうであったように――。
    <略>
 ここを一般に(というより`業界ではaと呼ぶべきか――)「剱岳北方稜線」と呼んでいる。

 剱岳の北尾根を、頂上からすぐさまそう呼ぶこともあるが、小窓・大窓あたりで、岩山としての剱岳がひと区切りついた段階で、それより北の山並みをそう呼ぶこともある。赤谷山や毛勝三山を主として言うのだが、ではどこまで、という規定はなく、であれば立山連峰北半全体――。「まさかソンナ――」と言われそうである。
 しばらく北方稜線批判を続けるなら、漢字六文字も連ね、使いづらく生硬。魚津高校山岳部の先輩、高瀬具康氏によれば、現役時代の同氏らの命名という。一九五〇年ごろのことになる。高校生の造語に芳醇を求めてもそれは無理と言うものだろう。
 かえって、今にして言えば、このいかめしい語に彼らの気負いや過剰な意識が色濃くにじんでいる。それは剱岳中心主義(=アルピニズム至上主義)にほかならない。その何が問題なのかと言うと、これによって剱岳の北の個性的な山々、あるいは魅力的な地域が剱岳への過程、あるいは剱岳の隷属物として一緒くたにされかねないということだろう。
 にもかかわらずそれをあえて本書の副題に採ったのはなぜなのか。ことの是非をおいて、ともかく、五十年をこの言葉と共に生きてきたからにほかならない。あるいは「アルピニズム」という語と共に急速に死語化していくであろうこの語を歴史の証人としてここにとどめようとした、ととっていただいてもよい。


雪 稜  春の毛勝三山縦走

 果たしてあくる日は晴れた。昨日は雨、それが今朝クラストして快調にかせげる! とほくそえむ。しかしそうではなかった。そのクラストのためにこそ、最悪の、ほとんど信じ難いくらいの苦労をなめさせられることになるのであった。
 テントを畳んで泊まり場を出たのは五時二十分。毛勝山頂まで五時間かかったとして十一時ごろだろうか? しばらく岩まじりの尾根を行き、尾根の南側を回り込むようにして雪の上に立った。雪稜がうねるようにして頭上へ続いていく。まばらなオオシラビソをぬいつつ登ればいいのだ。右手に大明神山が、早くも朝日を浴びつつずんぐりした姿を見せている。
 だが、氷化した尾根を行くぼくらの歩みは、まことにいらだたしいものだった。氷化した雪面を蹴破りながらボコッ、ボコッと一歩また一歩と登っていかざるを得ないのだ。はかどらず、それにもまして体力の消耗著しい。力いっぱい踏みつけても雪面が破れないときはその上にのる。そして、そっと二歩三歩雪面上を歩いて、ムム……調子がいいぞと思いつつ次の足を出すや突然ズブリ!とくる。
 何たる雪!と毒づいてみてもはじまらない。耐えて登るほかはなかった。事態が少しでも好転することを期待しつつ。しかし結果を言えば、この日終日これは変らなかったのだ。
 四人でラッセルの交替を何度も何度も数え切れないほどくり返しつつ、広い雪稜をひたすらゆくのみで、ルートを選ぶ必要もなかった。
 苦しかった。とりわけラッセルが辛かった。交替の時はほとんど昏倒寸前だった。だからといって二番手三番手が目立ってラク、ということもまた少しもなかった。トップの足跡が、一歩毎に深い穴になっているのだが、それをなぞるときは腰の高さまで足を上げつつ足をぬいで、それをまた次なる穴に戻す、ということを果てしなくくり返した。ヘトヘトになりながらトップを追いつつ、その苦しみの極みで次にその最悪のトップに立たねばならないのだ。その苦しみに耐えられず、何度かぼくは、自分の交替時に休憩を提案した。そして、休んだあとの第一ピッチでトップをつとめさせてもらうべく……。
 長い尾根、遠い頂上、高い頂上、はるかな頂上。そこへ一歩、一歩、一歩、一歩……迫った。苦しかった。空は青く、日差しは強かった。雪は空の色に透きとおり、輝いた。しだいにあたりの空気が、下界のそれと溶け合うことのない弧絶したものになっていった。そしてぼくらは絶顛に立つ。毛勝山北峰の。
 もう日は西側にまわっている。五時間をみたが結果的には七時間を超えていた。遠かった、高かった、辛かった、長かったが、ともかく目指す一峰にたどりついた。めでたかった、うれしかった。腰がぬけたようになり、口ではしゃいでいるが、立ち上がる力が出なかった。ようかんをほおばり、水を飲み、ジュースを飲む。座ったまんまで。自分が何か半身不随でベッドにからだを横たえているような気分だ。


釜谷山から朝日を浴びる毛勝山をふり返る


一歩一歩苦しいむきさしをくり返す。毛勝山西北尾根で

  黒部川支流尾沼谷溯行

 夏草の草いきれの中を急ぎ尾沼谷に入る。そしていよいよ谷そのものとの対話がはじまってゆく。九時である。
 青黒い堅い岩。剱でも毛勝でも見られぬもの。ここにこの谷独特の自己主張のようなものを見る思いがして、たのもしく思う。そこを新田君を、あるいは囲君を先頭にして踏み越えてゆく。谷中のその青黒い岩はまだしっとりとうるおっていて、黒部奥山の夜の深さをたっぷりとしみ込ませたまま、という感じだ。
 前方からの陽光が、瀬におどる飛沫をきらめかせる。その飛沫を右に左にかわしながら、かなり早い歩調で谷をわたってゆく。先頭の新田も囲も、この辺りはすでに何回も歩いていて、その歩調は自信に満ちていてよどみがない。ほくはと言えば、この谷については何もかもはじめて、その独特の青黒い色にさえたじろいでいるくらいで、自信どころか先頭についてゆくのがやっと、という感じ。
 尾沼谷の自己主張は青黒い岩の色ばかりではない。その上を飛びはじけて流れる水また決然として迷いがなく、それが力強く美しい。
 やがて右手へ一支流を分ける。本谷は左にカーブ。前方から日が差し、それを受けた瀬が鋭く輝き、それ以外のものを真黒にさせる。新田君は右岸の草の中に分け入り、その中の階段状の岩を踏みしめて先を急ぐ。右手に草をすかしてごうごうの白い水柱。最初の滝である。約十五メートルと読んだ。
 階段状の岩がつきて行き止まりになるや、先頭の新田は左手の岩に垂れ下がっている二本の古いザイルにつかまり、逆さにぶら下がるようにしてその支点のあたりへおどり上がって行く。乱暴な登攀だなあーと思う間もなく囲君も同じようにして滝の上へ消えた。
 自信がないが、続くしかなく、もう二、三回と手を替えている。四、五、六回ぐらいで棚の上の草の中におどり込む。納屋君また、ぴったりとぼくの後にくっついて来ている。
 滝上からは、谷の様相が、ガレの多い荒れた感じに変わった。今度はぼくが先頭に立った。これは、新田・囲のリードは少しキツかったので、「このぐらいのペースでどうか――」という意味あいのものだった。
 やがて、すぐにそれと分かる本谷出合いにつく。本流へ支流が入流するのが普通だが、ここは逆だ。まっすぐ突き上げる沢があって、そこへ本流が直角に合流する形になっている。誰言うとなく休憩。ザックを下ろして、本流ゴルジュの中にある滝を見に行く。深い茶筒のような地形の中に滝があるという感じで、いかにしても直登は無理。
 ザックの位置に戻り、直進する赤い荒れた支谷をたどる。百メートルほどして、左岸の草藪に取り付く。二週間前この経路をすでに偵察済みの新田が先頭、草のなかを登ってゆく。草の底には水のないルンゼ状のものがあり、これを、ハシゴを登るようにグイグイ登る。そのうちにルンゼは草付となって、尾根状のところに出た。ここから本谷へ下降するのだ。つまり、本谷入り口の滝を右岸から巻くわけである。


小黒部谷の核心部八連瀑の一つを登る

山スキー  黒部川支流尾沼谷溯行

 翌朝目覚めたのは四時半だった。寝過ごしてしまった。四時起き、五時発の予定だったのだ。パンと紅茶で朝食を済ませ外に出た。すでにカールの内壁は朝日にいろどられていた。スキーをつけて今しも剱沢へ滑り込もうと思うが、新田君がなかなか出て来ない。右手親指が痛くて全く使えず、ザックの紐も靴紐も結べないという。昨目の転倒で手首を痛めたと思っていたが、どうも親指をねんざか骨折しているらしい。小指を使って覚束なく靴紐を結ぶのを待って小屋を辞したのは六時だった。友ちゃんが綿入れのうわっぱりをはおってゴム長で滑りやすい氷上に出て見送ってくれた。
 今朝は、昨日にあった雪質の変化はない。雪の全面がガラスのように氷化している。そこをゆっくりと、大きく旋回しながら剱沢に滑り下った。かえりみると友ちゃんが、小山の上の黒い点として見上げられた。沢筋に入ると、そこをすでに朝日が照らしていた。その朝日を真正面から浴びつつ、その朝日に向かって滑りおりるのだ。
 金色の光にぬれながらのこのときの氷上の滑降は、思い出すだに華麗なひとときだ。これぞまさしくこの山行のハイライトでなかったか。源次郎尾根の凄い壁も八ツ峰の岩群も視界にはあったのだが、ぼくらは氷上の舞踏に酔うことと、心先にせくあまりそれは心に止まらなかった。
 氷上滑降は束の間の夢のように過ぎた。十分ほどで真砂沢小屋の真上あたりと思われるところにつき一息入れた。ここから下流はすでに雪が黒ずんで、五月の雪渓の感じだ。もう曲げる必要はなく、スキーにただ乗っているだけでどんどん進んでゆける。二股が近づくと雪が切れて、何カ所か瀑流がのぞいている。しかし、両岸の雪がずっと続いていて、スキーを脱ぐこともなく二股に着いた。


片貝東又谷の三階棚滝あたりをひと滑りでかわしていく。




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