●目次
第一章 南アルプスの歳月
北 岳
歳月茫々
一人の儀式
鳳凰三山
夜叉神峠の春秋
新年の北岳を撮る
甲斐駒ヶ岳
二十一世紀の初日の出
七丈小屋の満月
黒戸尾根を登りきる
仙丈岳
新しい山靴
濃霧の山と蔵の宿
塩見岳
頂上のビバーク
南アルプスの匂い
赤石岳、荒川三山
山の精たち
滑 落
伊勢湾台風のあと
秋の縦走
聖 岳
お前に逢いにきた
第二章 忘れ得ぬ山々
穂高岳
嵐とそのあと
八ヶ岳
烈風の稜線
雪の横岳
丹沢 蛭ヶ岳
霧 氷
利尻岳
遠い山
宮之浦岳
洋上のアルプス
富士山
富士山頂からの暑中見舞
●抜粋
北 岳
歳 月 茫 々
一九九四年(平成六)九月十一日午前七時、北岳頂上は快晴だった。
この白峰三山(北岳、間ノ岳、農鳥岳)を囲む仙丈岳、甲斐駒ヶ岳、鳳凰三山という豪華な山々が野呂川を埋める雲海の上に浮かび、富士山がこれも甲府盆地の雲海の上にあった。
頂上には十数人の人たちがいて、その思い思いの姿勢に満ち足りた雰囲気があった。私もその中の一人だった。
私が初めてこの頂上に立ったのは二十四歳の時だった。昭和三十三年一月四日、雪の吊尾根を登り、氷に覆われた八本歯を辿った記憶はつい昨日のように鮮明だが、それからもう三十六年の月日が過ぎた。私は六十一歳になった。そして今、もう登ることはないだろうと思っていたこの山の頂上に立っている。
結核による二度の長期療養の後、二十二歳でようやく社会に復帰し、健康のために始めた私の山歩きは、奥武蔵から奥多摩、奥秩父、やがて八ヶ岳、穂高へと次第にエスカレートしていった。その頃、会社に日本山岳会会員だという課長がいて、太平洋戦争前の若い頃の山の話をよく聞いた。とくに冬の日光・雲竜峡の凍った滝を初登攀したことを懐かしそうに話してくれる人だった。ある時その課長が言った。
「山の会の後輩が山の道具屋を開業したので、使ってよ」
場所は国電(現JR)飯田橋駅に近く、店は『梓』、主は奥山章という名だと教えられた。私の自宅は早稲田で会社は日本橋だったので、都電で通っている通勤の途中だった。以来、時間があればその店に立ち寄り、キスリングやツェルトやスキーなどを買った。
そのころ私はようやく初冬の穂高縦走くらいまでできるようになっていたが、岩登りは異次元の世界だった。この店の主が日本登攀界きっての先鋭的なクライマーだとは全く知らなかったし、そこで飛び交っているのは同じ山の話でもまるで夢の中の話だった。しかし、たむろしている人たちの、「梁山泊」という名が思い浮かぶような一種アウトロー的な雰囲気に惹かれて、店の隅に立ったまま皆の話に耳を傾けたりしていた。
「冬のバットレスをやるのだが、サポートについてきてもいいよ」
梓に通い始めて二年ほどたった秋のある日、奥山さんが私に言った。
(以下略)

池山吊尾根・砂払の頭から厳冬の北岳バットレス。
頂上に突き上げている垂直の岩稜が中央稜(1958年1月4日撮影)

池山吊尾根の登りにて。奥山章さん(右)と著者
●あとがき
私の山への急速な傾斜は、第一章で述べた奥山章氏との幸運な出会いにより、「北岳バットレス冬期初登攀」にサポートとして同行した二十四歳の正月から始まった。そのときの記憶は時間が経つにしたがってますます鮮やかになっているが、若い日にはそれが後の自分の人生にどれほどの重みを持つものになるのか、想像もできなかった。
―(略)―
五人兄弟の長男の私には、社会人となったとき、年老いた両親と弟妹がいた。長男を家長と定めた戦前の社会制度のなかで中学生まで育った私は、常に自分一人の身体ではない、との意識から抜けることはなかった。早く職業を定めて、まじめに勤めなければならない、と心から思っていた。
いくら山が好きになっても、〈目もくらむような岩壁に「アラヨッ」とかなんとかいって取り付いていく…〉(『喪われた岩壁』佐瀬稔著、中公文庫63ページ)という世界は、踏み込んではならない禁断の領域だった。私の山の選択は尾根歩きになり、その中でせめて長く困難な尾根を単独で目指すようになる。松濤明のような氷雪の岩壁を目指す単独行は禁断の領域であり、加藤文太郎の長大な尾根を歩く「単独行」をバイブルのように読んだ。その先に南アルプスがあったのである。
それゆえに、北岳バットレス行の人たちのその後の活躍を、私は憧憬の思いで追い続けていた。叶わぬドラマの主人公に自分を移入させる心境だった。あの人たちと一緒に私は氷雪の北岳に行った。その誇りは半世紀を過ぎた今でも色あせることはない。
―(略)―
(南アルプスは)他の山域と比較して、山小屋は少なく、営業期間も短い。だから季節をはずすと登山者は極端に少なくなる。その広い景観を独り占めにする豪華な贅沢さこそ、南アルプスの真骨頂であり、山だけではなく、すべてのスポーツやレジャーのなかでも最高の充足感を与えてくれるものだと思う。
この魅力を知ったことは幸せなことだった。その魅力を味うためには、何といっても健康であるとともに一定の持久力が必要である。赤石、荒川岳を歩くには一五キロ背負って、一日一〇時間を歩かなければならない。六十一歳で北岳を再訪してから十年、四季の南アルプス入りを継続していることで、私は何とかその持久力を維持できている。そのことは山だけではなく日常のすべての思考と行動に好影響をもたらしている。趣味を超えて、生き甲斐を支える健康保持の努力は終生続けたいと思っている。(以下略) |